掲載日:2024年06月07日
更新日:2024年06月19日
万里の長城は"世界の七不思議"に数えられており、1987年には世界遺産に登録されました。
さらに年間1000万人が観光に訪れています。
2017年にはイギリスの調査会社によって「観光スポット来場者数ランキング」で世界一となっています。
今回は歴史、場所、建設された理由など面白い事実を中心に紹介したいと思います。
長城は北方の騎馬民族「匈奴(きょうど)」からの侵入を防ぐために、紀元前7世紀(約2700年前)の中国各国で築かれていました。
そのあと紀元前3世紀(約2300年前)に秦の始皇帝によって長城をつなぎ合わせ、万里の長城としました。
この時は基本的に土を積み上げて作られたもので、馬や人が乗り越えられなければ良いということで、それほど高くない城壁でした。
その後の王朝により約30万の軍兵と数百万の農民を動員して補修・増築工事を行い、長城を更につなぎ合わせました。
現在見ることができる万里の長城は明(約600年前)によって作られたものであり、始皇帝が繋げた長城より南に後退しています。
万里の長城は敵の侵入を防御するための高大な城壁として役割を果たしてきました。
特に明(約600年前)において、中華人民共和国の北部を防衛するために欠かせない要塞として機能していました。
高さ約9メートル、幅約4.5メートルの城壁は敵の侵入を防ぎ、見張り台や塔などの防衛システムが随所に設置されていました。
北京周辺には八達嶺、慕田峪、司馬台、金山嶺など、有名な長城のスポットがあります。
これらの場所は北京の防衛の最前線として機能していました。
さらに北京市から100キロメートル以内の距離に位置するため、迅速な応援部隊の派遣が可能でした。
また、万里の長城には多数の門や関所があり、長城を越える馬賊や交易キャラバンは検問を受けなければならず、これにより治安が保たれていました。
万里の長城は政治、経済、社会的にも重要な役割を果たしていました。
政治
長城の存在は王朝の威信を示し、内外に対する抑止力として機能しました。
特に始皇帝の時代から明にかけて、長城の建設と保守は国家の力を示すシンボルになりました。
経済
関所を経由しての交易が行われるため、税収は非常に大きなものとなりました。
特に八達嶺は多くの商隊がここを通過しました。
社会
長城の建設と維持には大量の労働力が必要であり、それが地方の雇用を生み出しました。
孟姜女は中国4大民話であり、地方によって話が異なるそうですが、共通するのは愛情物語ということです。
以下に大体の内容を記載しました。
「孟姜女は新婚であったが、夫を長城修築のための労役をすることになる。
残された妻は、厳寒の地にいる夫のことが気がかりで、夫のため冬着をつくり、長城を目指して万里の道の旅に出る。
ようやく長城にたどり着いた孟姜女が知らされたのは、夫は苦役の中で死に、長城の土中に埋められてしまったということ。
悲しみのあまり、孟姜女が長城を前にして慟哭(意:悲しみのあまり、声をあげて泣く)すると、城壁が崩れて無数の人骨が露われる。
その人骨のなかから、夫の遺骸を探そうと指を刺して血を滴らすと、不思議や、その血は夫の遺骨だけに浸み込んでいった。
そこで夫の遺骨を拾い集めて持ち帰り、これを手厚く葬ったあと、みずからもあとを追って命を絶つ。」
孟姜女(もうきょうじょ)について
URL: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9F%E5%A7%9C%E5%A5%B3
今回は万里の長城について調べてみました。
写真で見るときれいな形をした万里の長城ですが、実際に綺麗に保存されているのは全体の8%であるそうです。
世界遺産ですが、長すぎて間に合っていないそうです。
6259キロメートルですもんね。納得しちゃいます。
観光は北京から1時間で行けるみたいなので、機会があれば行きたいですね笑
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