現在から1年以上過ぎているため、過信しすぎないでください。
掲載日:2023年11月03日
更新日:2024年04月23日
硫黄島の戦いは、大日本帝国軍とアメリカ軍の間で激しい攻防が繰り広げらたとして教科書に掲載されていましたね。
令和になった今はわからないですけど。。
なので今回は硫黄島について復習していきます。
なぜ硫黄島という名称になったかというと表面の大部分が硫黄の蓄積物で覆われているところからこの島名がつけられたみたいです。(島の名前は意外とそのままですね。)
硫黄島は、東京から南に約1,080km、そして島の面積は21km²ほどになります。
現在は全域が海上自衛隊と航空自衛隊の基地のため、建設業者等を除いて一般の方は立入禁止になっています。
なお厚生労働省が毎年、硫黄島の遺骨収容(遺骨収集)事業へ参加する団体の公募と選定を行っており、団体としてであれば参加できます。
しかし観光感覚で立ち入る人も多く、身辺調査、前科の有無、その他不適切と見なされた場合など規制が厳しくなっているようです。
硫黄島の戦いは1945年2月19日に始まり、アメリカ海兵隊と大日本帝国軍の激しい戦闘が続きました。
大日本帝国軍は硫黄島を死守しようとしましたが、アメリカ軍は島を占領し、日本本土への侵攻を進めるために戦いました。
当初、米軍は簡単な掃討作戦とみなしていたものの、大日本帝国軍は激しい抵抗を示し、地形を利用した熾烈な防衛戦を展開しました。
それに対しアメリカ軍は空襲や砲撃、歩兵部隊による地上戦を展開し、慎重に硫黄島の制圧を試みました。
大日本帝国軍の戦力
陸 軍 12,723名
海 軍 7,406名
島 民 82名
のうち 20,129名 が戦死。
一方、アメリカ軍の戦力
陸 軍 9名
海 軍 881名
海兵隊 5,931名
のうち 6,821名 が戦死。
36日間の地上戦に対して戦死者数が異様であることがわかります。
1945年3月 26日 栗林中将と海軍部隊指揮官の市丸利之助少将の自決をもってアメリカ軍が硫黄島を奪取しました。
この時アメリカ軍の第56任務部隊司令官スミスは
「栗林は太平洋戦線で敵対したなかで最も侮りがたい存在であった」
と評し、他の海兵隊員は
「日本軍のなかに栗林のような人が他にいないことを願う」
と実感を込めて述べていた。
アメリカ海兵隊の公式報告書による栗林に対する評価は下記となっている。
❝ 海軍や航空支援を受けることができないことを運命づけられた栗林は、断固とした有能な野戦司令官であることを証明して見せた。 ❝
硫黄島は太平洋戦争末期に、
・日本本土から帰投するB-29の不時着用の基地
・戦闘機によるB-29の護衛や空襲任務の発進基地
としての役割を果たしたとされています。
1968年4月5日の返還協定締結を経て、1968年6月26日に日本国政府に返還されました。
1968年に返還された際、国土地理院発行の地形図上の呼称は「いおうとう」となっていたのですが、
1982年の地形図改訂の際に、小笠原村は硫黄島の呼称を「いおうじま」と東京都に報告。
東京都庁ではこれに基づき「いおうじま」と公報したため、地形図においても「いおうじま」と呼称されるようになりました。
しかし硫黄島の呼称を「いおうとう」に統一するようにという要望は、旧島民およびその子孫などの間から古くからあり
この要望に応え、小笠原村議会は2007年3月に地名の修正を国土地理院へ要望をしました。
そして2007年6月18日、国土地理院及び海上保安庁海洋情報部にて受託し
2007年9月発行の地形図から、国土地理院の地図、海上保安庁の海図でも「いおうとう」が正式な表記となっている。
硫黄島の戦いについて激戦だったということしか記憶にありませんでしたが、実際の数字を見るととんでもないことがわかりました。
硫黄島に訪れると心霊現象が発生するという噂はこの数字に由来していると思われます。
しかし、硫黄島は一般人の立ち入りは禁止されているので全くのデマである可能性が高いですね。
今回は硫黄島について詳しくなり、心霊現象についてもなんとなく解消できた気がするので、記事にしてよかったと思います。
今日はここまでにしておきます。ではでは
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